江戸名所図会より

『江戸名所図会』より

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意富比神社(船橋大神宮)について

式内社・旧縣社
御祭神 天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)
例大祭 10月20日

意富比神社(船橋大神宮)の沿革

 景行天皇40年、皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国御平定の折、当地にて平定成就と旱天に苦しんでいた住民のために天照皇大御神を祀り祈願された処、御神徳の顕現がありました。これが当宮の創始であります。
 平安時代、延長5年(927)に編纂が完成した『延喜式』にも当宮が記載されており、式内社としての歴史を知ることができます。
 後冷泉天皇の御世、天喜年間(1053〜58)には、源頼義・義家親子が当宮を修造し、近衛天皇の御世、仁平年間(1151〜54)には、船橋六郷の地に御寄付の院宣を賜り、源義朝が之を奉じて当宮を再建し、その文書には「船橋伊勢大神宮」とあります。
 鎌倉時代、日蓮聖人(1222〜82)は宗旨の興隆発展成就の断食祈願を当宮にて修め、曼荼羅本尊と剣を奉納されました。
 江戸開府の頃、徳川家康公(1546〜1616)は当宮に社領を寄進、奉行をして本殿・末社等を造営し、以来江戸時代を通して五十石の土地が幕府から寄進され幕末に至りました。
 近代に入り、明治天皇陛下(1852〜1912)には習志野・三里塚へ行幸の都度、勅使を以て幣帛料を御奉奠遊ばされました。
 往時の諸社殿の景観は、江戸時代末期の「江戸名所図会」に窺えますが明治維新の戦火のため焼失しました。
 その後、明治6年(1873)に本殿が造営されたのを初めとして、大正12年(1923)、昭和38年(1963)、同50年(1975)、60年(1985)に本殿・拝殿・末社・鳥居・玉垣・参道に至るまで随時造営がなされ、県文化財指定の灯明台の修復なども経て、今日に至っております。

意富比神社 船橋大神宮 正面

延喜式内意富比大神宮図絵

二の鳥居
 二の鳥居
 第62回神宮式年遷宮 記念事業
 二の鳥居造替 高さ18尺 笠木24尺
 平成25年6月15日完成
 ※参考 伊勢神宮の宇治橋鳥居 高さ7.44m、約22尺

「意富比」の語義

 意富比(おおひ)神社は、船橋大神宮の名で知られる船橋地方最古最大の神社です。初出の文献は、平安中期の『日本三代実録』貞観5年(863)の記事で、「下総国意富比神」とあります。これは、船橋市域に関する文献として最古のものです。また平安中期の格式ある神社を記した『延喜式』(えんぎしき)の「神名帳」(じんみょうちょう)にも、下総国11社の中に「意富比神社」として載せられ、東国では数少ない「式内社」(しきないしゃ)でありました。
 この意富比の語義と神格について古くは、「大炊」で食物神とする説があり、戦後は古代豪族オホ氏の氏神とする説などが出されました。その後、意富比の古い読みは「おほひ」であり、上代特殊仮名遣いの上から「日」は「比」等で表され、「火」は「肥」等で表される点を考慮し、さらに歴史的にみても意富比神社が古くから太陽信仰と深い関係をもっていたことを考察に加えて、意富比神は「大日神」すなわち「偉大な太陽神」が原義であるとする説(三橋健「意富比神考」)が登場します。つまり中世から幕末までは一般に「船橋神明」と称され、主祭神を天照皇大御神とする意富比神社も、原初は古代のこの地方最大の太陽神であったとするもので、現時点では最有力な説となっています。

伊勢神宮との関係

 前記のように、当社は中世以降一般には船橋神明と呼ばれることが多かったようです。神明とは伊勢神宮を分祀した神社のことです。
 すると、古代には当地方最有力の太陽神であった意富比神が、中世のある時期に伊勢神宮に同化したと想定されますが、そのあらすじは次のように想定されます。 —平安末期に近い保延4年(1138)に夏見を中心とする一帯が、伊勢神宮の荘園「夏見御厨(みくりや)」となった。実際には当地から伊勢神宮へ白布を貢納した。そうした関係から、当地には伊勢神宮が分祀され「神明社」ができたが、その御祭神は言うまでもなく、最高の太陽神である天照皇大御神であった。やがて地元の偉大な太陽神は、同じ太陽神である神明社に同化して船橋神明となり、船橋大神宮と称されるようになった。—

「船橋殿」は誰か

 多古町顕実寺の古文書に、応永4年(1397)の「日尊譲状」という所領の譲渡証文があり、文中に「船橋殿」という文言が見えます。この船橋殿については未詳でありますが、時代が下った天正6年(1578)の「高城胤辰禁制」(『舟橋文書』)にも「船橋殿」が見え、これは意富比神社神主富氏をさしています。すると前者も神主をさしている可能性が高いと思われ、意富比神社の神主は室町初期には、小規模ながら在地領主としての一面を有していたと想定されます。

江戸時代以降の変遷

 近世に入ると江戸に移った徳川家康公は翌年、天正19年(1591)に領地内の有力寺社に寄進をし、船橋神明にも五十石の土地を寄進しました。裕福な農家5軒分ほどの耕地です。
 以後、幕末まで当社は将軍家とのつながりを持ち、本殿の右奥に家康公・秀忠公等を祭る常磐神社が建てられました。また江戸中期以降は「関東一之宮」を自称したため、伊勢神宮と紛議になったこともあります。
 いずれにせよ、江戸時代には船橋地方随一の名所であり、遊山の旅人はたいてい参詣しました。
 ところが、明治直前の慶応4年(1868)に戊辰戦争の局地戦が房総で起こった際、当社が幕府方脱走兵の一拠点とされたために、官軍方の砲撃で消失という災難にあってしまいました。
 明治に入り、当社は仮社殿でありましたが、まもなく正式に再建されました。また、明治初期に新政府の政策として、全国の神社の社格が決められた時、当社は現市域唯一の「県社」とされました。

文化財と行事

 境内の灯明台は明治13年(1880)に完成した和洋折衷の建物で、現存の中では国内最大級の民間灯台といわれ、千葉県指定有形民俗文化財となっています。

灯明台 千葉県指定有形民俗文化財指定書

 祭礼は10月19・20日に行われ、特に奉納の素人相撲(20日)は、「船橋のけんか相撲」として、関東一円に名を知られていました。
 また、例大祭(10月20日)をはじめ、正月の一日と三日・節分・12月の二の酉に演じられる神楽は、船橋市指定無形民俗文化財となっています。

船橋大神宮の神楽 船橋市指定無形民俗文化財指定書

灯明台

意富比神社略年表

貞観5年(863) 「下総国意富比神」が正五位下を授けられる(『日本三代実録』)
貞観13年(871) 「下総国意富比神」が正五位上を授けられる(『日本三代実録』)
貞観16年(874) 「下総国意富比神」が従四位下を授けられる(『日本三代実録』)
延長5年(927) この年に完成した『延喜式』の「神祇」部の下総国十一座中に「意富比神社」とある〔通称「延喜式神名帳」(えんぎしきじんみょうちょう)〕
保延4年(1138) 伊勢神宮の荘園である「夏見御厨」〔別名「船橋御厨」〕が成立する
応永4年(1397) 『日尊譲状」(多古町顕実寺文書)の本文中に「船橋殿」の文言がある
応永6年(1399) 千葉満胤が「天照皇大御神」に私領を寄進する ※この寄進状を偽文書とする説(福田豊彦『千葉満胤』他)もある
文亀4年(1504) 『胤縁判物』に「舟橋天照□」(本文)、「神主富殿」(宛名)とある
永禄3年(1560) 『万栄判物」の本文中に「大神宮」とある
永禄9年(1566) 『豊前守〔河田長親〕禁制』の本文中に「舟橋郷内天照大神宮」とある
天正6年(1578) 『高城胤辰判物』に「当年より船橋の郷に於いて神明の御町相立て候」(原擬漢文)とある
『高城胤辰禁制』の宛名に「船橋殿」とある
天正19年(1591) 徳川家康公より五十石の土地を寄進される
宝暦5年(1755) 冨右近秀胤が『当宮本縁』を著す
天明元年(1781) 意富日皇太神宮、幕府から「権現様御宮其外末社修復」助成の為、麹町天神境内での富籤興業を許可される
天保4年(1833) 意富日皇太神宮、「御宮其外諸末社大破に及び候に付、修復助成の為」(原擬漢文)陸奥国・出羽国・御府内での勧化を許可される
慶応4年(1868) 戊辰戦争の兵火にかかり本殿他を焼失する
明治5年(1872) 県社に列せられる〔船橋地域では唯一〕
明治6年(1873) 本殿が再建される
明治13年(1880) 境内に灯明台が建てられる〔政府公認の民間灯台〕
明治18年(1885) 農具市が始まる〔一時は関東一の規模と言われた〕









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